ブロードを使ったラグー・アラ・ボロネーゼ(ボローニャ風牛の煮込み)を作る

  • 2020.08.12 Wednesday
  • 17:10

今回は、以前に作ったブロード・ディ・ポロを使って、再度ラグー・アラ・ボロネーゼ(ボローニャ風牛の煮込み)を、作ります。

 

以前に作ったラグー・アラ・ボロネーゼは、ブロードの作り方をまだ紹介してなかったので、ブロードを使わずに単純に鍋に水を足して煮込んでいましたが、今回は水の替りにブロード・ディ・ポロを使って作ります。言わば、これが正式版のラグー・アラ・ボロネーゼなのですが、ブロードを使って牛肉を煮込むと、その味わいに複雑な旨味が足されて、もっと美味しくなります。

 

イタリアのボローニャに行けば、このレベルのラグー・アラ・ボロネーゼは、ごく普通に食べられるのですが、おそらく日本国内のリストランテでは、ここまで作り込んでいるのは、ごく一部の店舗に限られるでしょう。実際に、わたしも数多くの日本国内のイタリア料理店に足を運びましたが、ボローニャで食べたあの味を出せていたのは、ごく一部の名店と言われるところだけでした。

 

ところで、わたしは、まだ食べに行って無いのですが、ボローニャの味を安価に再現したラグー・アラ・ボロネーゼの専門店を日本国内にチェーン展開しようとしている企業があるそうです。わたしも、きちんと作られたラグー・アラ・ボロネーゼには、そのようなことを可能にするだけのインパクトが充分にあると思っていますが、今回、そういう本物の味を、ちょっと手間を掛けるだけで、家庭でも再現できるということを、紹介してみたいわけです。

 

なお、今回も、牛腿肉は、タスカルネットショップから購入したオーストラリア産のものを使っています。あらかじめ、ある程度の大きさに刻んだ肉を急速冷凍したものなので、レストランの厨房などで、すぐに調理できるように工夫されたものですが、今回もそれをそのまま使って、全体を焼き付けてから煮込んでいきます。

 

それでは、手順を説明しましょう。

 

■材料(15〜18人分)

 

牛腿肉            2kg

トマト缶(1号缶)        1缶

玉葱              3個

セロリ             3本

にんじん            1本

赤ワイン  680mℓ(ボトル1本分)

ブロード・ディ・ポロ    400cc

大蒜              2片

ローリエ          2、3枚

塩              適量

オリーブ・オイル       適量

お好みのパスタ        適量

パセリ            適量

パルメザン・チーズ      適量

 

材料一覧

 

まず、イタリア料理の定番であるソフリットを作ります。たまねぎ、にんじん、セロリの軸を大ぶりに切ってから、フード・プロセッサにかけて、みじん切りにします。この時、にんにくも皮を剥いて、包丁でみじん切りにしておきます。

 

ソフリット準備

 

大鍋、もしくは寸胴の底にたっぷりのオリーブ・オイルを流して、にんにくのみじん切りを中火の弱火で炒めていきます。

 

にんにくをフリット

 

にんにくがきつね色になって、香りが立ちのぼり始めたら、野菜のみじん切りをいれて、炒めていきます。この時、決して強火で炒めないようにします。弱火でじっくり炒めていくと、野菜の水分が抜けると同時に甘みがでてきて、非常に美味しい野菜の出汁(だし)になります。時々、底から混ぜてやって、焦げ付かせないようにしましょう。もし、焦げてしまったら、そのソフリットはもう使えません。焦げ味は最後まで残るので、やり直しになります。ですから、火加減を調節して、弱火で気長に炒めましょう。

 

野菜を炒める

 

ソフリットを作っている間に、トマトの掃除をします。残っている皮やへたの部分、傷んでいる部分などを、手で取り除いてやります。フランス料理の料理人のように、この作業を神経質にやるクオーコもいますが、この作業はそれほど全体に影響しないので、イタリア人のように鷹揚に構えてぱっぱと手早くやって構いません。ここは気楽にやりましょう。

 

トマトの掃除

 

次に、肉の処理をします。まず、肉全体の1%から2%程度の重量の塩をふって、しっかり肉を混ぜて塩をなじませてやります。塩が全体になじんだら、強火で煙りがでるまで焼き付けたフライパンに、たっぷりのオリーブ・オイルを流して、肉を焼いていきます。この時、中火の弱火にしたままで、肉に焼き目をつけていきますが、あまりいじらないようにして、じっくりと焼いていきます。

 

肉を焼く

 

片面にしっかり焼き目がついたのを確認して、肉をひっくり返して、また焼いていきます。肉から大量の脂がでてきますが、そのままいじらず、もう片一方の面にも焼き目をつけます。火加減は中火の弱火を保ち、じっくりと焼いていきます。肉汁が透明になるまで焼きますが、およそ1時間程度掛かるでしょう。

 

肉をひっくり返して焼く

 

ここでソフリットを作り始めてから、1時間ちょっとが経過しているので、ソフリットができあがっている筈です。全体の量が1/3程度になって、ぽってりとしたペースト状になり、色が薄いきつね色になっていればできあがりです。もっと濃い色まで炒めるクオーコもいますが、わたしはこの程度で仕上がりにしていますが、野菜の強い甘みが欲しいのなら、もっと濃い色になるまで炒めても良いでしょう。その辺りは、もう好みです。

 

ソフリットできあがり

 

焼き目をつけた肉をソフリットを作った寸胴に移して、フライパンに赤ワインを分量注ぎ、肉の焦げ付いたところを刮(こそ)げます。ここには旨味(サポーリ)がたっぷりあるので、きれいに刮げながら赤ワインを煮詰めていきます。赤ワインが煮詰まって、とろみがでてきたら、これも寸胴に注ぎます。

 

焦げを刮げる

 

焼き目をつけた肉とソフリット、焦げを刮げて煮詰めた赤ワインを入れた寸胴に、ブロード・ディ・ポロを分量入れて、掃除したトマト、ローリエを入れて煮込んでいきます。火加減は、ふつふつと表面が沸く程度の温度を保って、煮詰めていきます。今回は水の替わりに、ブロード・ディ・ポロが入っていますので、牛肉から出る旨味とあわさって、より複雑な旨味がでる筈です。

 

ソースの煮込み

 

2時間程度煮詰めてやると、全体に艶(つや)がでてきて、滑らかになります。できあがりは、こんな感じです。

 

ソースのしあがり

 

フライパンに、一人分大匙3杯の見当でラグー・アラ・ボロネーゼを注いで、そこに茹で上げたリガトーニを入れて、フライパンをあおりながらソースを絡めてやります。それを皿に盛り込んでから、パセリの刻んだものを散らして、最後にパルメザン・チーズをふりかけます。これで、できあがりです。

 

できあがり

 

それでは、いただきます。

 

 

追記

 

例によって、できあがったラグー・アラ・ボロネーゼを、100均で買ってきたガラス瓶に詰めて、瓶ごと煮沸して殺菌しました。できあがりは、ちょうど900mℓのガラス瓶で5本分になります。こうしておけば、蓋を開けなければ、常温でも2ヶ月程度なら全く変質しません。ただし、蓋を開けたら、冷蔵庫で保存して、2、3日で使い切ります。

 

ガラス瓶に詰める

 

これなら、冷暗所で常温保存できるので、日々の食事のためのストックにしておけます。

リゾ・エ・ファジョーリ・アル・ヴィーノ・ロッソ(キドニー・ビーンズのリゾット 赤ワイン風味)を作る

  • 2020.08.10 Monday
  • 14:56

今回は、前回作ったブロード・ディ・ポロを使ったキドニー・ビーンズのリゾット 赤ワイン風味を作ります。

 

このリゾットは我が家の定番のリゾットになっていて、結構な頻度で作っています。上質なブロードさえあれば、簡単に調理できる割に、とても美味しくできあがるので、全く食べ飽きません。このリゾットを食べると、ほんのりと赤ワインの酸味が感じられ、それがキドニー・ビーンスの味を引き立ててくれるので、どんな季節でも美味しく食べられます。

 

ところで、最近では、常温保存可能なドライ・パックの食材で、品質の良いものが多数販売されていて、我が家でもこのような商品を多用していますが、今回もそのようなドライ・パックのキドニー・ビーンズを使って、リゾットを作ります。これなら、ひと晩かけて豆を戻したりせずとも、すでに煮上がった豆を、食べたい時にすぐ使えて、とても便利なのです。

 

実際に、日本国内のリストランテやトラットリアでも、このような小分けされた業務用のドライ・パックを多用しているそうで、手間の掛かる乾燥豆をひと晩かけて戻すようなことは、あまりされなくなっているようです。まぁ、廃棄率まで考えると、総体的なコストの削減にもなりますから、当たり前のことでしょう。

 

そういうわけで、このリゾ・エ・ファジョーリ・アル・ヴィーノ・ロッソ(キドニー・ビーンズのリゾット 赤ワイン風味)は、ブロードさえあれば、簡単に作られるので、皆さんにも、ぜひ挑戦して貰いたい料理のひとつなのです。

 

それでは、作り方を説明します。

 

■材料(2人分)

 

米              100g

ブロード・ディ・ポロ      500cc

キドニー・ビーンズ     2パック

たまねぎ             1個

赤ワイン           100cc

バター             40g

パルミジャーノ・チーズ     40g

オリーブ・オイル       適量

塩              適量

 

材料一覧

 

まず、ブロードを弱火にかけて、温めます。

 

ブロードを温める

 

ブロードが温まる間に、たまねぎをみじん切りにして、オリーブ・オイルをたっぷり敷いたフライパンで、たまねぎが透明になるまで中火で炒めます。

 

たまねぎを炒める

 

たまねぎが透明になってきたら、分量の米をいれて、米の表面につやがでて透明感がでるまで炒めます。

 

米を炒める

 

米に透明感がでてきたら、赤ワインを分量注いで、火加減を弱火にして、あらかた蒸発するまで煮込みます。赤ワインを充分に煮こむことで、酸味を飛ばします。

 

赤ワインを入れる

 

赤ワインがあらかた蒸発したら、あらかじめ温めておいたブロードを注ぎ、さらに弱火で煮込んでいきます。火加減はふつふつと表面が沸く程度の温度を保ちます。ブロードは一度に100cc程度ずつ、複数回にわけて注いでいきます。時々、底から空気を入れるように、全体を混ぜてやりましょう。なお、ブロードを入れてから15分程度煮込むと、アルデンテの食感を残した状態で、リゾットが煮上がる筈です。

 

ブロードを注ぐ

 

ブロードを入れて煮込み始めてから10分程度経過した時点で、7割がた米に火が通っている筈です。ここで、キドニー・ビーンズを入れてさらに、5分間程度煮込みます。

 

キドニー・ビーンズ

 

15分程度経過すると、余分な水気が飛んで、リゾットが煮上がっている筈です。味見をして充分に煮上がっていたら、コンロの火を止めて、バターとチーズを入れ、底から空気を含ませるように、全体をふんわりと混ぜ合わせます。

 

マンテカーレ

 

最後に味見をしながら、少量ずつ塩を足して味を調えます。これをレードルなどで掬って、皿に盛り込めばできあがりです。

 

できあがり

 

それでは、いただきます。

ブロード・ディ・ポロ(鶏肉のブロード)を作る

  • 2020.08.06 Thursday
  • 21:29

今回は、いよいよブロード・ディ・ポロ(鶏肉のブロード)を作ります。

 

イタリアの家庭でブロードを取る場合には、このブロード・ディ・ポロを作ることが多いようです。ブロード・ディ・ポロとブロード・ディ・カルネをあわせると、非常に美味しい出汁(だし)になるので、普段はブロード・ディ・ポロを主として使って、ここぞと言うときに、冷蔵庫に保存しておいたブロード・ディ・カルネやスーゴ・ディ・カルネ(フランスのフォン・ド・ヴォーのようなもの)を足すということもされるようです。

 

実際に、わたしがイタリアでクオーコの叔母ちゃんに最初に教えられたのも、このブロード・ディ・ポロでした。昼食の賄いで出た屑肉や野菜屑を集めて、鶏がらと一緒に香味野菜を入れて煮るということを教えられて、そのあまりの始末ぶりに、目から鱗が落ちたような気分でした。クオーコの叔母ちゃんが言うには、ホテルでは牛の片身などを大量購入するので、肉を解体した際に大量の屑肉やすじ肉が出るので、それでブロードを取ると教えられて、結構、納得したものです。

 

わたしも、これまでさまざまな料理をしてきたので、我が家の冷凍庫には、鶏腿肉を掃除した際にでた皮や飛び出した部分の肉、鶏胸肉の脂身を削いだ部分、鴨肉を成形した際にでた端肉、鶏の丸焼きをした際に切り落とした頭や足など、さまざまな鶏の屑肉が溜っていました。そこで、これをすべてまとめてブロード・ディ・ポロの材料として使います。

 

セロリの葉の部分は、通常サラダなどには使いませんが、これも冷凍庫で保存しておけば、ブロードを取る時に使えます。また、パセリの軸の部分も口当たりが悪いので、通常は料理に使いませんが、これも冷凍庫に保存しておけば、ブロードを取る際に香味をつけるのに役立ちます。要するに、鶏がらと香味野菜、屑肉、屑野菜を集めて出汁を取るので、大量にブロードをとっても、手間こそ掛かりますが、あまりお金は掛からないわけです。

 

そういうわけで、以前、イタリア料理の基本を紹介するために、まずブロード・ディ・カルネの手順を詳しく説明しましたが、家庭でブロードを取るのなら、このブロード・ディ・ポロは、非常にお薦めなのです。もちろん、最近は無添加の美味しいブロードやブイヨンも沢山市販されていますが、自分でブロードを取ると、それはもう別次元の料理になるのです。このブロードがあれば、ミネストローネを作ったり、ボリート・ミスト(いろいろな肉と野菜の煮込み)を作ったりと、さまざまなイタリア料理に使えるので、ぜひ挑戦して貰いたいものです。

 

もし、屑肉が冷凍庫に無いのなら、鶏がらとあわせて、鶏の骨付き腿肉を2本ほど入れて煮るとよいでしょう。その場合には、鶏の骨付き腿肉は、1時間ほど煮て取り出し、粗熱がとれてから身をほぐしてサラダなどに入れると無駄なく料理に使えます。

 

■材料(仕上がり6ℓ)

 

鶏がら               1.5kg

鶏の屑肉(鶏肉を掃除してでたもの) 1.5kg

たまねぎ               2個

にんじん(葉付きの間引きのもの)   2束

セロリ                2本

セロリの葉(冷凍しておいたもの)    適量

パセリの茎(冷凍しておいたもの)   10本

トマト・ペースト         大匙1杯

ローリエ               2枚

黒胡椒(ホール)           20粒

水                  12ℓ

塩                 ひと掴み

 

材料一覧

 

材料一覧2

 

にんじんは、葉の部分を外して、実の部分を薄切りにします。たまねぎは、皮を剥いてざくりにします。セロリは葉の部分を外して、軸の部分は大ぶりにざく切りにします。冷凍して保存していたセロリの葉を中心にして、にんじんの葉と、セロリの葉、パセリの軸をまとめて、たこ糸で結わえてやります。これは、煮ている途中で取り出すので、扱いをよくするためです。

 

野菜の下拵え

 

次に、鶏がらを、流水で綺麗に洗って、お腹のなかの血合いなどを丁寧に取り除きます。綺麗に洗った鶏がらは、流水に1時間ほど漬けて血抜きをます。1時間経ったら、寸胴にたっぷりの湯を沸かして、そこに鶏がらを入れて、再沸騰させたら、茹でこぼしにします。

 

鶏がらの茹でこぼし

 

15ℓの寸胴に約12ℓの水を入れて、強火にかけて沸騰させます。湯が沸騰したら、そこに鶏がらや鶏の屑肉、たまねぎなどの香味野菜、たこ糸で縛った野菜の葉、黒胡椒、ローリエ、トマト・ペーストを入れて、強火で煮ていきます。再沸騰したら、すぐに弱火にします。沸騰させると大量の灰汁が出てくるので、これを丁寧に灰汁取りおたまなどで掬(すく)います。

 

ブロード煮込み開始

 

この時、決して中身を混ぜ返したりしないようにして、表面に浮いてくる灰汁だけを、静かに掬うようにして下さい。荒っぽく混ぜ返したりすると、ブロードの濁りの原因になります。また、火加減は決してぼこぼこと沸騰させずに、ふつふつと湯が沸く程度の温度を保つようにします。なぜなら、長時間沸騰させると、ブロードが濁って、苦みやえぐ味などの雑味の原因になってしまうからです。

 

長時間、野菜の葉を煮込むと、ブロードの濁りや雑味の原因になりますので、1時間から1時間半ほど煮たら、たこ糸で縛った野菜の葉を取り出します。

 

野菜の葉をとりだす

 

鶏がらを茹でこぼしにしているので、ある程度灰汁を取ると、もうあまり灰汁は出ないと思いますが、時々灰汁を掬いながら、全体が煮詰まって半量程度になるまで、煮ていきます。おそらく、鶏がらを入れて煮始めてから、最低でも4時間程度は煮る必要があるでしょう。

 

煮ている途中経過

 

さて、5時間程度煮込むと、全体が煮詰まってようやく半量程度になりました。これで、だいたい仕上がりです。最後に、保存性をあげるために、塩をひと掴み入れます。汎用性を考えて、塩を入れないクオーコもいますが、わたしはブロードを常温で長期保存することを優先して塩を入れています。一般的なリストランテでは、これぐらいの量のブロードを4、5日程度で使い切るのが普通ですので、塩を入れなくてもよいのです。

 

ブロードの仕上がり

 

さて、できあがったブロードを、あらかじめ水で洗って固く絞った晒し木綿の布をかけ、それをダブル・クリップでとめた笊で漉(こ)します。この時、ブロードを濁らせないように、静かにレードルで掬って漉(こ)してやりします。決して、笊の中身を無理やりぎゅうぎゅう押したりせずに、ブロードが自然に落ちるに任せて、漉してやりましょう。

 

ブロードを漉す

 

丁寧に晒し木綿の布で漉すと、6ℓちょっとのブロードができました。これを900mℓのガラス瓶に詰めると、ちょうど7本分です。ガラス瓶に透けて見えている色は、トマト・ペーストを味足しに加えているので、やや茶褐色の透明なブロード・ディ・ポロです。

 

なお、ブロードを漉した後に残った鶏肉や鶏がら、野菜は、もう味が抜けていてぱすぱすなので、わたしは全部捨てています。もともと、鶏料理や鴨料理を作ったときに出た屑肉と精肉の際に可食部を取ったあとの鶏がらですので、ちょっともったいないですが、遠慮なく捨ててしまいましょう。

 

瓶に詰める

 

ガラス瓶に詰めたら、これをたっぷりの湯を張った寸胴で、1時間程度煮沸して殺菌します。このひと手間を加えることで、常温での長期保存が可能になります。蓋を開けなければ、2ヶ月程度なら常温でも全く変質しませんが、蓋を開けたら冷蔵庫で保存して、4、5日程度で使い切ります。

 

煮沸消毒

 

ブロードを白い小皿にとって、できあがりを確認してみました。やや茶褐色の透明の濃厚なブロードがとれました。

 

できあがり

 

次回から、このブロードを使った料理も、順次紹介していく予定です。

 

本日、これまで。

リゾット・アラ・ミラネーゼ(ミラノ風リゾット)を作る

  • 2020.08.05 Wednesday
  • 20:31

今回は、先日作ったブロード・ディ・カルネを使ったミラノ風のリゾットを作ります。

 

わたしが、リゾット・アラ・ミラネーゼ(ミラノ風リゾット)を初めて食べたのは、20数年前にミラノを訪れた際に、モンテ・ナポレオーネ通りのはずれにあった「ビジネス」というリストランテでのことですが、当時、それをひと口食べて、あまりの旨さに驚愕しました。それまで日本のイタリア料理店でリゾットを食べたことはあったのですが、上質のブロード・ディ・カルネを使ったリゾット・アラ・ミラネーゼを本場のミラノで食べてみて、今まで日本で食べていたべちゃべちゃの味の薄いリゾットとは、あまりにも違うので、その味わいに完全に魅了されたのです。

 

わたしも、その後、イタリアに滞在するようになって、イタリア各地でリゾットを食べてみましたが、ミラノで食べたリゾット・アラ・ミラネーゼの衝撃を超えるものはないものの、ボッリート・ミスト(牛肉や鶏肉を茹でた料理)の茹で汁を使ったリゾットや、あさりのブロードを使ったリゾット、栗やくるみを入れたリゾットなど、季節や地方によってさまざまに工夫されたリゾットを食べてみて、イタリアの食文化の奥深さに、非常に感銘を受けたものです。

 

ところで、日本でリゾットを作る際に注意しなければいけないのは、イタリアと日本では、主として流通している米の品種が違うことです。イタリアでリゾットなどに使われるカルナローリ米などの品種は、所謂、インディカ米と言われる品種ですが、日本で流通している米の大半は、ジャポニカ米と呼ばれる品種の米です。

 

インディカ米を日本の炊飯器で炊くと、ボロボロしていて少しも美味しくありません(実は、鍋を使って、美味しく炊く方法もあります)が、リゾットにはアルデンテの食感が出しやすいインディカ米が向いています。逆に、ジャポニカ米でリゾットを作る場合には、どうしても不必要な粘り気がでやすいので、リゾット作るときには、あまり混ぜすぎてはいけないのです。また、精米された状態での水分含有量も、イタリアの米と日本の米は違うので、煮る時間を微妙に調節してやらねばなりません。

 

今回は、誰にでも気軽に作られるように、普通に日本で流通しているジャポニカ米で作りますが、トスタトゥーラ(米を炒める)の時間を微妙に長くして、米を油膜で覆ってやることで、煮上げた時にアルデンテの食感を生み出すなど、インディカ米と比較して微妙な調整が必要となります。この辺りの仕上げの微妙な感覚は、作ってみないとわからないものなので、最初は頻繁に味見をしながら、できるだけアルデンテになるように作ってみると良いでしょう。

 

なお、古典的なミラノ風リゾットは、仔牛の骨を輪切りにして髄(ずい)の部分を味足しに使いますが、ここは日本でイタリアではないので、仔牛の骨を輪切りにしたものは、自分のところで仔牛の片身を仕入れて解体でもしない限り、滅多に手に入りません。また、イタリアでも、最近は、仔牛の骨の髄を入れるとリゾットが、かなり濃厚になるので、入れないことも多いようです。そこで、今回は、誰にでも作られるように、仔牛の骨の髄は省略したリゾット・アラ・ミラネーゼを作ることにしました。もちろん、上質のブロードがあれば、それでも充分に美味しいリゾットを作ることができますので、心配する必要はありません。

 

■材料(2人分)

 

米              120g

サフラン(ひとつまみ)     0.1g

たまねぎ(みじん切り)     1個

赤ワイン            100cc

ブロード・ディ・カルネ     400cc

バター              40g

パルミジャーノ・チーズ(粉末)   40g

サラダ・オイル          適量

塩                適量


材料一覧

 

まず、たまねぎをみじん切りにします。リゾットを食べたときの口当たりをよくするために、細かいみじん切りにしましょう。

 

たまねぎをみじん切りにする

 

たまねぎをみじん切りにする間に、ブロードを小鍋にいれて温めます。

 

ブロードを温める

 

温めたブロード100cc程度器にとって、そのなかにサフランを入れてふやかし、サフランの香りと色をうつしてやります。

 

サフランに熱いブロードを注ぐ

 

次に、サラダ・オイルを薄くしいたフライパンにバターの半量を入れて、みじん切りにしたたまねぎを、全体が透明になるまで中火で炒めます。

 

たまねぎを炒める

 

たまねぎが透明になったら、分量の生米を洗わずにそのまま入れて、米につやがでて透明感がでるまで、中火で炒めます。

 

トスタトゥーラ

 

米に透明感がでてきたら、火加減を弱火にして、分量の赤ワインを入れ、ほぼ赤ワインが蒸発するまで煮ます。

 

赤ワインを入れる

 

フライパンのなかに入れた赤ワインがほぼ蒸発したら、あらかじめ温めておいた熱いブロードを100cc程度ずつ数回に分けて注ぎ、弱火で煮ていきます。火加減を調整して、ふつふつと沸く状態にして、ときどき底から混ぜてやりますが、米を潰さないように、ふんわりと空気を入れる感じで、混ぜるとよいでしょう。米をブロードで煮る時間は、15分を目安としますが、時々底から混ぜたらちょっとだけ味見をして、米が煮えたかどうかを確認します。

 

ブロードで煮る

 

米が7割程度煮上がってきたら、サフランの香りと色をつけたブロードを注いで、さらに煮ていきます。

 

サフランの香りをつけたブロードを入れる

 

味見をして米が煮上がったのを確認したら、コンロの火をとめて、残りのバターとパルミジャーノ・チーズの粉末を入れて、ふんわりと空気を含ませるように底からかき混ぜてやります。

 

マンテカーレ

 

バターとチーズが充分に混ざったら、味見をしながら塩をちょっとずつ足して味を調えます。これで、できあがりです。なお、リゾットを皿に盛るときには、レードルなどでリゾットを皿に注いでから、軽く皿のふちをとんとんと叩いて平(なら)してやると、綺麗に盛り込めます。


できあがり

 

それでは、いただきます。

葉さんの阿里山金萱茶を飲む ― 李登輝前総統の訃報に思う ―

  • 2020.08.01 Saturday
  • 15:22

今日は、久順銘茶の葉さんが監修した阿里山金萱茶を飲みます。

 

このお茶は、台湾南部の阿里山の麓(ふもと)、海抜約1500mを超える嘉義縣阿里山地区梅山郷秦興村で葉文村さんが作っているお茶ですが、所謂、着香茶(ちゃっこうちゃ)では無いのでですが、熱湯を注ぐとミルクかココナッツのような特徴的なバニラ香、もしくはクチナシの花の香りがします。このお茶は、数ある台湾高山茶のなかでも、その香りから日本人好みのするお茶として知られており、特に女性に人気があるそうです。そういうわけで、知る人ぞ知る銘茶として、台湾および日本で珍重されているお茶のひとつだと言えるでしょう。

 

阿里山金萱茶

 

1煎目を淹れて、その出鼻の香りを聴香杯で聴いてみたところ、トップ・ノートで強いクチナシの花の香りが上がってきて、同時に軽い焙煎香が感じられました。焙煎香はそれほど強くないのですが、強くタンニンを感じるボディ感のしっかりしたお茶だと言えるでしょう。茶色をみると、濁りはなく透明であり、薄い黄金色です。光に透かしてみたところ、毛埃は無いので新茶ではないようです。
 

聴香杯

 

なお、今回、このお茶に合わせた茶菓は、近所にある菓子舗のロール・ケーキです。阿里山金萱茶にバニラ香があるところから、バニラ・ビーンズを使っている「真ロール・ケーキ」と「ももロール」をあわせてみました。阿里山金萱茶と香味がマッチして、大変美味しく頂きました。

 

ここで、開いた茶葉を小皿に広げて確認したところ、茶葉がきれいに揃っているので、どうやら手摘みをしたもののようです。開いた茶葉を噛んでみたところ、かなり強くタンニンが感じられますが、同時に茶の旨味も充分に感じられます。

 

茶葉を確認

 

製茶された茶葉を観察してみると、揉捻(じゅうねん)されて丸く固められていますが、それぞれの粒がかなり不定形になっているところから、揉捻機を使ったものではなく、手作業で揉捻されたもののようです。製茶された茶葉を噛んでみると、香ばしい焙煎香の後にお茶の旨味成分が感じられ、その後で強いタンニンを感じます。とても良いお茶だと思います。もっとも、全体の味わいとしては、かなりさっぱりとしている印象があり、このお茶は口あたりの良いお茶だとも言えるでしょう。

 

2煎目を淹れてみたところ、かなり落ち着いた味わいになり、焙煎香が薄らいだためか、むしろ2煎目のほうがココナッツのような香りを強く感じました。ボディ感のしっかりしたお茶なので、2煎目でも痩せた印象はありません。茶菓とあわせるのなら、2煎目のほうが美味しく感じられるのではないでしょうか。3煎目を淹れても、しっかりとボディ感が残っており、美味しく頂けました。

 

ところで、香り高い台湾高山茶を飲むと思い出すのは、先日、97歳で逝去された台湾の李登輝前総統のことです。

 

わたしは、李登輝という人物を直接知っているわけではありませんが、その著書や多数のインタビュー記事などを読む限りでは、政治家として傑出した人物であったことは、どうしても認めざるを得ないところなのです。特に、台湾総統就任後に、台湾と日本の友好に尽力し、台湾人と日本人が、篤(あつ)い友誼(ゆうぎ)を結ぶ、礎(いしずえ)を築(きず)いたことは、日本人なら誰しも認めるところなのではないでしょうか。

 

李登輝は、日本統治下の台湾、台北州淡水郡三芝埔坪村で、大正12年(1923年)に生を享(う)けます。一族は古くから台湾に住みついた客家で、父の金龍は警察官であり、経済的に安定した家庭環境により、幼少の頃から教育環境に恵まれていました。長じて台北高等学校に進学した李登輝は、優秀な成績を修め、日本本土の京都帝国大学に進学し、農業経済学を学んでいましたが、戦局の悪化に伴い、他の文科学生と同じように、学問半ばで「学徒出陣」により出征することになります。訓練を終えて、名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属されますが、22歳の時に名古屋で終戦を迎えます。終戦後、台湾に帰郷して、台湾大学農学部農業経済学科に編入して学士号を得たのちに、奨学金を獲得して米国アイオワ州立大学に留学し、農業経済学をさらに研鑽(けんさん)して修士号を得ています。

農業経済学の専門家として台湾大教授などを歴任した
農業経済学の専門家として台湾大教授などを歴任した
農業経済学の専門家として台湾大教授などを歴任した

 

李登輝という人物は、海千山千の豪腕な政治家としての側面が強調されがちですが、その経歴からも明らかなように、その本質はどちらかと言うと学究肌の研究者としての側面が強い人物だと言えるでしょう。その著書やインタビューなどを読んでも、「難しいことは日本語で考える」と本人も言っていたように、日本語で理路整然と世界情勢や農業政策、自己の信念などを語る姿が印象的であり、非常に「理屈に煩い」人物であったことが伺(うかが)えるのです。その意味で、よくある世評のように、李登輝を台湾を民主化した「情念のひと」としてのみ理解しようとするのは、わたしにはあまり妥当性がないように見受けられます。

 

ところで、李登輝という人物も、かつて若かりし頃、理想に燃えて共産主義を信奉していたことがあるのですが、李登輝という複雑な人物を理解する上で、どうしても共産主義というものが、当時、どのように理解されていたかを解らねばなりません。

 

当時、マルクス経済学というのは最新の経済理論であり、それ故、多くの優秀な人材が、それを学んでいたという事実があることを、ここで指摘せねばならないでしょう。泥沼となった大陸での戦局の悪化にともない、日本国内では国家総動員体制が敷かれるなかで共産党が非合法化されたため、日本国内で身の置き所がなくなった共産主義者の多くは、当時、国家統制経済による社会民主主義の実験場となっていた満州帝国に渡ることになるのですが、その多くは当時日本最大のシンクタンクであった満鉄調査部に集められ、社会調査などに従事することになります。

 

李登輝は、京都大学在学中に学徒動員により軍に招集されているので、このような転変は辿りませんでしたが、農業経済学を学ぶ過程で、当時最新の経済学であったマルクス経済学との邂逅(かいこう)があったようです。李登輝自身の証言でも、若い頃に国民党への嫌悪感から共産主義者となったことを認めていますが、その理論を詳しく学んだ結果、共産主義の限界も感じて、早い時期にそれを放棄したようです。したがって、李登輝を共産主義者で中国共産党のシンパだったのではないかという批判は、あまり正当性がないと言えるでしょう。

 

ところで、ここで現在の世界情勢を説明すれば、中国共産党政府は、イギリスから返還される際に約束した、香港の高度な自治を50年間維持するとの合意を反故(ほご)にし、香港市民の激烈な抗議行動にも拘(かかわ)らず、強行に「香港国家安全法」を施行しましたが、そのことで米国政府やイギリス政府のみならず、多くの自由主義国と深刻な対立を惹起しているのです。ここに至るまでの香港に対する中国共産党の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)な政策に関しては、すでに詳細に分析済みですが、明らかに中国共産党は「秘密結社の論理」で世界を支配しようとしており、ついに米国の覇権に挑戦する姿勢を隠すことすらしなくなったと言えるでしょう。

 

中国共産党は、国際的な仲裁裁判の結果を無視して、実効支配する南シナ海の環礁に大規模な土木工事を施すことで人工島を建設し、そこに飛行場を含む軍事基地を建設して戦闘機や爆撃機を配備するなど、手段を選ばぬ領土拡張をしようとしていますが、東シナ海の尖閣諸島などの日本の領土に対しても、強行に自国の領土権を主張して、中国公船による領海侵犯を日常的に繰り返しており、その領土的な野心を隠そうともせず、軍事力を背景とした覇権主義を日本に対しても及ぼそうとしているのは、すでに周知の通りでしょう。

 

これに対して、トランプ政権の重鎮であるポンペオ国務長官は、7月23日、カリフォルニア州のニクソン記念館で新しい中国政策について重要な演説を行い、これまでの対中融和政策を転換させ、習近平を「全体主義者の信奉者」と揶揄(やゆ)することさえして、今後、中国に対して、米国は厳しい対決姿勢で臨むことを明確にしたのです。今後、米国と中国の間で、突発的な軍事衝突まで至るかどうかは不明ですが、少なくともお互いに自国内の領事館の閉鎖をしあうなど、緊張が高まっているのは疑いないところでしょう。

 

そして、香港をその支配下に置いた中国共産党が、次に狙うのは、明らかに台湾の支配権なのです。何故なら、中国の空母を含む機動部隊が西太平洋に遊弋(ゆうよく)するためには、その地政学的な要因から、台湾と日本は中国にとってどうしても軍事的に攻略せねばならないからです。中国は、軍事戦略上の概念として、対米防衛線である第一列島線と第二列島線を規定していますが、明らかに周辺地域の領海と国権を無視しており、その覇権を日本や台湾、フィリピンに及ぼす意思を明確にしていると言えるでしょう。

 

逆さ地図

「逆さ地図」で見る、中国にとって邪魔な日本 東洋経済オンラインより借用


かつて、第2次世界大戦の終結後の1949年に人民解放軍が台湾に軍事侵攻してきた際には、米国は台湾の防衛に責任を持たないとの立場を表明していたため、根本博中将を始めとする多数の旧大日本帝国の軍人が水面下で蒋介石に協力することで、辛くも邀撃(ようげき)することに成功しましたが、近年、台湾に対して米国は、台湾関係法を基礎として、ますますその関与を強めており、はっきりと米軍による台湾防衛の意思を示したと言えるでしょう。

 

台湾有事の際には、「日米安保条約」に於ける「周辺事態」の適用があることは、すでに国会答弁で明らかとなっていますが、台湾に人民解放軍が武力侵攻した場合には、日本の海上自衛隊の艦艇も、直接の戦闘に参加せずとも米国の空母機動部隊と連携して、台湾海峡の封鎖などの軍事行動を行うこととなるでしょう。

 

この際に、われわれが理解しなければならないのは、中国という国は、米軍との衝突が起きた場合には、横須賀などの米国の艦艇が母港としている日本国内の港湾に対しても、一切躊躇(ちゅうちょ)することなく、停泊している米国艦艇を目がけて、弾道ミサイルを撃ち込んでくるという事実です。

 

昨年、朝日新聞が1面で報道したのですが、中国共産党政府は自国内のゴビ砂漠の一角に、横須賀の港湾を左右鏡映しにして反転させた実物大の模型を作り、艦艇と同じ大きさの目標物を設置して、遠距離から弾道ミサイルを撃ち込む軍事訓練を実施していたことが、衛星写真の画像解析により明らかになっています。つまり、彼らはいったん米国と戦闘状態になれば、停泊している米艦隊を撃滅するために、友好国である日本国内の港湾にも、遠慮会釈なく戦術核などを搭載した弾道ミサイルを撃ち込んでくる可能性が窮めて高いと言えるのです。

 

したがって、日本は望むと望まざるにかかわらず、台湾情勢がどのようになるかによって、再び戦乱に巻き込まれる可能性が窮めて高いのです。このように台湾情勢が風雲急を告げる時代に、台湾を民主化して、日本との友好を推進した李登輝前総統が逝去したことは、長く続いた平和な時代が終結し、再び動乱の時代に転変しつつあることを予感させるものだと言えるでしょう。

 

そして、李登輝前総統の訃報に相前後して入ってきたのは、朝鮮戦争の際にその形勢を逆転する切っ掛けとなった、世界の軍事史に残る突撃戦を指揮した白善(ペク・ソニョプ)将軍の訃報です。白将軍は享年99歳での死去でしたが、李登輝前総統とは2歳違いで、現在の国籍は違いますが、かつて日本の統治時代に、ともに大日本帝国臣民としての教育を受けたものとしては、同世代であったと言えるでしょう。

 

白将軍著書


朝鮮戦争の際に、北朝鮮軍の猛攻に対して為す術も無く、連敗に継ぐ連敗で追い詰められた韓国軍は、辛(かろ)うじて大邱と釜山に橋頭堡(きょうとうほ)を維持するだけの危機的状況でした。白将軍は、遂に最後の橋頭堡である釜山円形陣地が攻められるに及んで、前線から退却してくる麾下(きか)の将兵に対して感動的な訓示を行います。

 

連日連夜の激闘は誠にご苦労で感謝の言葉もない。よく今まで頑張ってくれた。だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになるのだ。我々が多富洞を失えば大邱が持てず、大邱を失えば釜山の失陥は目に見えている。そうなればもう我が民族の行くべき所はない。だから今、祖国の存亡が多富洞の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ。だから死んでもここを守らなければならないのだ。しかも、はるばる地球の裏側から我々を助けに来てくれた米軍が、我々を信じて谷底で戦っているではないか。信頼してくれている友軍を裏切ることが韓国人にできようか。いまから私が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。貴官らは私の後ろに続け。もし私が退がるようなことがあれば、誰でも私を撃て。さあ行こう! 最終弾とともに突入するのだ。

 

この訓示を行ったあと、敵が制圧する最前線の陣地に対して、旧大日本帝国軍の「指揮官先頭」の範(はん)に則(のっと)り、師団長である白将軍自身が先導しながら捨て身の突撃による白兵戦を敢行(かんこう)して、北朝鮮軍のフロント・ラインを壊滅させるのですが、その「敢闘精神」に於(お)いて正(まさ)に「もののふの鑑(かがみ)」であると申せましょう。

 

それまで韓国軍の弱兵ぶりに業(ごう)を煮(に)やしていた米軍も、突如として韓国軍が円形陣地から突撃戦を敢行したことを見て、これを好機としてともに突撃戦を始めるのですが、これにより朝鮮戦争の帰趨(きすう)が決定したのですから、その軍功は計り知れないものであると言えるかもしれません。

 

生前、白将軍は韓国の国防に関して、独自の分析による歯に衣着(きぬき)せぬ見解を度々(たびたび)発表しておりましたが、韓国ではあまりにも本当のことを言うので、歴代の政権から相当に嫌がられておりました。もちろん、韓国でも軍人はリアリストなので、白将軍の忌憚(きたん)の無い意見を否定することはできずに、北朝鮮と戦争になると、軍事予算は北朝鮮の60倍の韓国軍が、必敗することを認めざるを得ないとの発表をしたことさえあるのです。

 

白将軍は、あまりにも本当のことを言い続けるので、軍功を鼻に掛けているだの何だのと、韓国内では散々に嫌味を言われておりましたが、それを嫌ってか、日本だけで日本語で出版された白将軍の著書があるのですが、その著書には、もし北朝鮮と戦争状態になると、北朝鮮軍がどのように韓国に軍事侵攻してくるかを、具体的かつ事細かに分析したものが掲載されていて、わたしもそれを読んで非常に感銘を受けたものです。

 

ところが、現在、文在寅政権は妄想とも言える「南北融和」の政治理念から、有事の際に国境線付近に架橋された橋を落とす爆薬や、主要な高速道路を封鎖するためのバリケードを落とす爆薬などを撤去するなど、白将軍が分析をした時よりも、北朝鮮への国防体制が遙かに弱体化しているのです。

 

このままでは有事の際に、北朝鮮の弾道ミサイルが驟雨(しゅうう)の如く飛来するなかで、軍事上の重要拠点に北朝鮮の最精鋭である空挺特殊部隊(ショック・トループ)の大部隊が、軍事境界線を越えて低空飛行で突入してくることになるでしょう。そして、そのような状況のなか、韓国軍の指揮系統の混乱に乗じて、国境付近の地下壕に展開されている北朝鮮の機械化師団が、何の抵抗もなくそのままソウルに雪崩れ込んでくる(国境線からソウル市内までは、戦車で1時間の距離です)ことは避けられず、その結果、再びソウルが陥落することは、避けられない状況なのです。

 

現在の韓国の状況を言えば、2018年の韓国艦艇によるレーダー照射事件などを始めとして、徴用工訴訟や慰安婦訴訟など、文在寅政権下で続けざまに起こる反日扇動を日本政府から強く忌避されており、もはや日韓関係は破綻寸前の状況なのです。そして、米国からは、その厚かましい二股外交の結果、同盟国であることをすら疑われており、中国からは属国の地位に戻るかと脅され、「三不一眼」の誓いを立てさせられ北朝鮮からはもはや「敵視」すらされており、正に「四面楚歌」の状況なのです。それなのに、文在寅政権は、もはや現実の世界情勢をまともに認識する能力がなく、ひたすら妄想の世界で「徒手空拳」を繰り返しているのが現状なのです。

 

ところで、米国トランプ政権は、韓国からの全面撤兵もあり得ることを、繰り返し示唆しておりますが、文在寅大統領の現実の政治状況を無視した願望だけの「南北鉄道建設」「金剛山観光特区」の再開「開城工業団地」の再開などの「空手形」が、何も実行されていないことに、北朝鮮は非常に激怒しており、このままでは第2の「アチソン宣言」が米国から出された場合には、それを契機に北朝鮮軍が再び韓国に軍事侵攻してくる可能性すらある状況なのです。

 

実際に、金正恩の後継者とされる妹の金与正は、南北首脳会談の結果だされた「板門店宣言」に明文としてある「宣伝ビラを飛ばさない」ことすら守らなかった文在寅政権に激怒して、実質的に韓国の大使館でもあった「南北共同連絡事務所」を爆破しており、もはや文在寅政権の「南北融和」の政策は、完全に失敗したことは明らかなのです。

 

このような状況の中で、白善将軍と李登輝前総統が相次いで逝去したことは、われわれの生きている世紀が、再び動乱の時代へと転変したことを予感させる出来事であると言えるでしょう。

 

 

白善将軍と李登輝前総統のご冥福を、慎んでお祈り申し上げます。

 

 

追記

 

戦前の混迷の時代を生きた共産主義者の群像として、わたしがどうしても取り上げたいと思うのは、東海林太郎という戦前から戦後に一時代を築いた歌手の生(い)き様(ざま)です。彼が燕尾服を着て直立不動のまま、戦後の高度経済成長に於いても、何故に執拗に戦前のヒット曲を歌い続けたのかということを考えるとき、その人間としてのあまりの誠実さに、感銘を受けざるを得ないのです。

 

東海林太郎

 

東海林太郎は、早稲田大学在学中に経済学者を志して、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党(第二次共産党)の中央委員長ものちに務める佐野学に師事して、当時最新の経済学理論であったマルクス経済学を学び、南満州鉄道株式会社庶務部調査課(のちの満鉄調査部)に勤務することになります。満鉄に勤務して満州各地の社会調査に従事し、『満州に於ける産業組合』を脱稿するのですが、その内容があまりにも左翼的であることを理由に、鉄嶺の図書館に左遷されることになります。

 

南満州鉄道株式会社には7年間勤務するのですが、音楽家になる夢をあきらめきれず、退社して日本に帰国し、声楽を下八川圭祐に師事し、音楽コンクールの声楽部門で入賞することで、ようやく歌手の道が開けます。1934年、日本ポリドール蓄音機株式会社で吹込んだ「赤城の子守歌」が空前のヒットとなり、続いてだした「国境の町」もヒットし、流行歌手としての地位を確立します。

 

当時、大日本帝国は、中国大陸で泥沼の戦争を闘っていたのですが、東海林太郎は故郷を離れて過酷な戦場で闘う兵士たちに共感して、慰問団長として各地の戦線を幾度となく慰問して廻っており、望郷の念に駆られた兵士たちからの強い支持を得ることになります。しかし、戦後は、そのことが軍国主義に協力していたとして非難を浴び、長く不遇の時代が続きますが、次第に人気を回復し、高度経済成長期には懐メロとして、TVの歌番組などで盛んに取り上げられるようになります。

 

その歌唱スタイルは、戦前から一貫してマイクの前に直立不動で微動だにせず立ち、朗々と歌い上げるものでしたが、彼は歌を唄うことを「真剣勝負」として考えていたため、その独自のスタイルを終生守り通しました。

 

 

戦後何年も経って世の中は高度成長で浮かれている頃、戦友会の集まりに呼ばれた東海林太郎が、戦前と変わらず直立不動で朗々と「赤城の子守歌」を唄うのを見て、戦友会に参加した人びとが「先生、もう勘弁してください。わかりましたから。わかりましたから。」と、平謝りしたというのは、有名な逸話です。

 

 

参考

 

歌手、東海林太郎も館長だった…質・量ともに内地を凌駕した満鉄図書館」 産経ニュース

スペッツァティーノ・ディ・マンゾォ・イン・アグロドルチェ(牛肉の煮込み アグロドルチェ)を作る

  • 2020.07.29 Wednesday
  • 21:10

今日は、以前に作ったブロード・ディ・カルネパンチェッタを使った牛肉の煮込み料理を作ります。

 

最近の気温は30℃を超えていますから、皆さん、ちょっとばかり食欲が減退していると思います。そこで、今回は、暑い季節でも美味しく食べられる、スペッツァティーノ・ディ・マンゾォ・イン・アグロドルチェ(牛肉の煮込み アグロドルチェ)という、牛肉を野菜と一緒に甘辛く煮た料理を紹介します。

 

イタリアでは、成牛肉「マンゾォ(Manzo)」は、フィレやサーロインなどの美味しい部位をとった後に、残りの部分は多くの場合、煮込み料理に使われることが多いようです。「スペッツァティーノ(Spezzattino)」というのは、角切りにした肉のことをさしますが、今回の料理には、煮込んだときに美味しい出汁(だし)のでる脛肉(すねにく)を、ひと口大の角切りにして使います。牛肉の部位はどこでもいいのですが、あまり値段の高い部位を使わなくとも、安価な脛肉で充分美味しい煮込みができますので、スーパーなどでカレー用として売っている特売の角切り肉を買い込んできて、使えば良いでしょう。

 

一緒に煮込む野菜も、自分の好みで選んで問題ありません。わたしの参照しているレシピ本では、小たまねぎ(ペコロス)を入れていますが、イタリアのリストランテでは、その時その時の旬(しゅん)の野菜を入れて作っているようです。実際に、わたしが長期滞在していたタオルミーナの賄いつきホテルでも、この料理とほぼ同じものが食卓に供されていましたが、地元で採れた野菜をふんだんに使っていて、非常に感銘を受けたものです。当時、夏のバカンス・シーズンの直前で、シシリアの肌に突き刺さるような初夏の強い太陽光線のなかを、あっちこっちに出歩いていて夕方ホテルに帰ってくると、さすがに食欲が減退していたのですが、この料理が出された際には、何やら非常に美味しく感じられたことを憶えています。

 

なお、このレシピよりもっと肉を大量に使うのならば、ブロード・ディ・カルネを使わずに、水で煮込んでも十分に美味しい出汁がでますが、家庭ではそれは無理なので、ブロード・ディ・カルネが無ければ、市販のブイヨンなどを買ってきて、それを水に溶かして使えば良いでしょう。また、パンチェッタが無ければ、ベーコンを買ってきて、みじん切りにして入れても良いです。それでも十分に美味しい牛肉の煮込みができます。

 

ところで、今回使った脛肉は、近所にあるニード牧場の直営店で買ってきたものです。ここは、肥育期間の長い「真牛(まうし)」を専門に扱っているので、まさにイタリアで言う「マンゾォ」に近い味が出せると期待して作っています。

 

■材料(4人分〜6人分)

 

牛脛肉               800g

たまねぎ              1個

パプリカ(赤)           1個

パプリカ(黄)           1個

じゃがいも(小ぶりな新じゃがいも) 12個

パンチェッタ              80g

グラニュー糖           大匙3杯

白ワイン・ビネガー          150cc

トマト・ペースト           大匙2杯

ブロード・ディ・カルネ        400cc

サラダ・オイル             適量

小麦粉                 適量

ローリエ               2枚

黒胡椒                 適量

塩                   適量

 

材料一覧

 

牛脛肉は、ひと口大に切り、軽く塩胡椒してから、薄く小麦粉をまぶしておきます。たまねぎと赤パプリカ、黄パプリカは、牛肉と大きさを揃えて、大ぶりのひと口大に切ります。パンチェッタは、粗いみじん切りにします。じゃがいもは、たわしで表面の汚れを落としてから、痛んでいるところを包丁できれいに削いで、丸のまま使います。

 

下拵え一覧

 

塩胡椒して薄く小麦粉をまぶした牛脛肉を、サラダオイルを敷いたフライパンで炒めていきます。火加減は中火で良いでしょう。表面に焼き目が軽くつくまで、炒めます。

 

肉を炒める

 

牛脛肉に充分に焼き目がついたら寸胴に移しますが、フライパンに残った焦げには、少量のブロードを注いで、木べらできれいに刮げます。このフライパンに焦げ付いたところにも、旨味がたっぷり詰まっています。そのまま捨ててはいけません。少量のブロードで刮ぎ落としたら、これも寸胴に注ぎます。

 

少量のブロードで刮げる

 

小鍋にサラダオイルをしいて、中火の弱火でパンチェッタのみじん切りを炒めます。表面をよく炒めたら、ここに大匙3杯の砂糖を入れて、木べらなどでかき混ぜながら、砂糖が溶けるまで、しばらく待ちます。

 

小鍋でパンチェッタを炒める

 

砂糖が溶けたら、砂糖が焦げないように、すぐに白ワイン・ビネガーを分量注ぎます。軽くひと煮立ちさせて、これも寸胴に移します。

 

白ワインビネガーを加える

 

炒めた牛脛肉と焦げを刮げたブロード、パンチェッタに砂糖と白ワイン・ビネガーを入れたものの入った寸胴に、さらにたまねぎとトマト・ペーストを入れて、弱火にかけて軽く沸騰させます。

 

たまねぎとトマト・ペーストを入れて煮る

 

沸騰したら、ブロード・ディ・カルネをひたひたになるまで注ぎます。次に、ローリエを入れて、寸胴の蓋をしたまま30分程度、弱火で煮込んでいきます。ふつふつと沸く程度の火加減を保ちましょう。

 

ブロードとローリエを入れて煮る

 

30分程度煮込んだら、じゃがいもと赤ピーマン、黄ピーマンを入れて、蓋をしたまま弱火で、さらに1時間程度煮込んでいきます。この時、もし水分が飛んで煮詰まっていたら、水かブロードを100cc程度足してやります。

 

じゃがいもとパプリカを入れて煮る

 

一時間程度煮込むと、牛脛肉が柔らかくなっている筈です。竹串などで刺してみて、肉にすっと刺さるようだとできあがりです。最後に、味見をして、塩胡椒で味を調えます。ここは、味を決めるところなので、いきなり沢山の塩を入れずに、慎重に塩を足して、甘さと酸っぱみ、塩の辛みが調和するようにしましょう。これを牛脛肉と野菜が綺麗に見えるように皿に盛り込めば、できあがりです。

 

できあがり

 

それでは、いただきます。

台湾高山茶 東方美人茶を飲む ― 日本統治下の台湾での女子教育について ―

  • 2020.07.24 Friday
  • 07:38

今日は、久順銘茶の台湾高山茶 東方美人茶を飲みます。

 

東方美人茶は、半発酵茶である青茶(烏龍茶)の一種ですが、発酵度が比較的高く紅茶に近いので重発酵茶に分類されます。今回、久順銘茶から購入したこのお茶は、台湾北部の新竹縣・苗栗縣で栽培されたもので、無肥料・無農薬で栽培されたものだそうです。

 

一般的に、東方美人茶は烏龍茶の中でも極めて生産量の少ない品種で、「白毫烏龍茶」や「香檳烏龍茶」、「五色茶」などの異名がつけられて、珍重されています。というのも、この東方美人茶を生産する際には、意図的に害虫である浮塵子(うんか)を茶園に放ち、それによりその独特の蜂蜜のような香りが引き出されるのですが、そのような特殊な栽培をするため、生産に非常に手間が掛かるので、その生産量が少ないのです。

 

このお茶は、すでに清代・日本統治時代に欧州に輸出され、台湾の重要な輸出品として外貨を稼いでいましたが、欧州ではこのお茶を「オリエンタル・ビューティ(Oriental Beauty)」の名で呼んだことから、台湾でも「東方美人」と呼ばれるようになったとされています。

 

東方美人茶


さて、1煎目を淹れて、聴香杯でその香りを聴いたところ、トップ・ノートで焙煎香があがってきますが、その後に濃厚な蜂蜜を思わせるフルーティな香りが感じられます。全体の印象として、重発酵茶に分類されているように、やや紅茶に近い味わいをしていますが、紅茶ほどタンニンを感じない、つまり、ボディ感のあまり強くない、あっさりしたお茶だと言えるでしょう。また、茶色に濁りはなく、透明で澄んでいますが、光に透かしてみたところ、表面に毛埃は浮かんでいませんでした。

 

聴香杯

 

開いた茶葉を確認してみたところ、「芯を含め3枚の葉だけを手摘みして作られている」という説明通り、茶葉が綺麗に揃っており、明らかに手摘みされたもののようです。茶葉は典型的な台湾茶の茶葉ですが、やや白っぽい色をしており、「白毫烏龍茶」と呼ばれる所以(ゆえん)を感じさせるものです。製茶された茶葉を噛んでみると、香ばしい焙煎香がトップ・ノートで上がってきて、それと同時に僅かな酸味とほろ苦い味を感じて、非常に美味しく感じます。大変、良いお茶だと言えるでしょう。

 

茶葉

 

ここで、茶菓を出して来ました。今回、東方美人茶にあわせたのは、神戸南京町恵記商工が地元神戸で製造している「蜜果月餅」です。ドライフルーツが沢山入っており、東方美人茶の蜂蜜のような香りと非常によく合いました。茶菓と合わせると、僅かに酸味を感じる東方美人茶の味を引き立てて、非常に美味しく感じます。

 

密菓月餅

 

2煎目は、かなり落ち着いた味になり、軽みのある爽やかな味になります。2煎目の味を聴いたところ、多分、このお茶は水出しする方が美味いのではないかと思いました。あまりボディ感が強くない割には、舌に痺れ感が残るのは、やはり発酵度が高いせいなのでしょう。この微妙な渋みが、同じく恵記商工が神戸で製造しているクルミと黒あんの入った月餅、「夜来香月餅」とよくあいました。

 

夜来香月餅

 

3煎目の味を聴いたところ、まだ仄(ほの)かに東方美人茶の特徴であるフルーツ香が感じられ、月餅と一緒に食べても十分に楽しめました。ただし、このお茶は発酵度が高い割に、ボディ感がさほどないので、3煎目が限界のようです。

 

ところで、香り高い台湾茶を飲むと思い出すのは、日本人として台湾総督府統治下で教育を受けた台湾人の人びとです。わたしが、初めて台湾を調査旅行(フィールド・ワーク)した20数年前では、そういう人がまだ社会の一線で仕事をしており、結構な頻度で日本語が通じたものです。

 

当時は、李登輝総統が総統直接民選で選ばれて、台湾が民主化されて間もない時期であり、国民党軍事独裁政権下で不当にねじ曲げられていた日本に対する歴史認識が、いっぺんにひっくり返って、実際に台湾総督府統治下で教育を受けてきた「おとうさん世代」が、そのありのままを証言するようになった時期でした。そういう「おとうさん世代」は、今ではもうかなりの高齢者になっておりますが、日本の近代というものを考える上で、そういう人びとがどのように台湾総督府統治下で生きていたか、国民党軍事独裁政権下でどのようなことがあったのかという証言を、ありのままに記録に残さねばらないと、わたしも常々感じているものです。

 

そういう意味では、2016年公開された『湾生回家』と言う、台湾で制作された台湾人の黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督によるドキュメンタリー映画は、台湾に生まれ、台湾に生きた日本人「湾生」からの証言として、非常に意味があったと思います。台湾に生まれ、台湾に育ち、そして日本の敗戦によって、故郷を喪失した「湾生」たちが、当時、何を思い、何を見たかと言うことが、多数の証言によって明らかにされており、このような生の証言が記録映像に残せたことは、日本人にとって望外(ぼうがい)の幸運とすら言えるでしょう。

 

そして、この映画と写し鏡になっているのが、日本人の酒井充子監督が制作したドキュメンタリー映画の台湾三部作、『台湾人生』、『台湾アイデンティティー』、『台湾萬歳』です。こちらは、所謂、台湾総督府統治下で生きてきた台湾人の「日本語世代」の証言を、詳細に収集しており、日本の近代を考える上で、非常に貴重な資料となっていると言えるでしょう。

 

湾生回家

 

かつて、日本人として生きていた台湾人が、当時、どのように考え、どのように生きたかと言うことを、ありのままに知ることは、現代の日本人にとっても、日本という国のありかたを考える上で、窮めて重要性が高いと思います。また、その後に台湾を支配した国民党が、台湾現地人に対して、どのような苛斂誅求な白色テロをもって弾圧したかと言うことも、かつて台湾を統治した日本人として、知っておかなければならないことでしょう。

 

その意味に於いて、台湾に興味のある人のみならず、日本の近代というものを考える上で、現代の若い世代にもぜひ観て貰いたいドキュメンタリー映画だと言えるかもしれません。

 

ところで、これらのドキュメンタリー映画を観ると、当時、台湾に開設された高等女学校などの話が頻繁に出てくるのですが、実際のところ、これらの女子に対する教育というのは、現代から見ても、相当に高度な教育がされていたことを、その証言からも窺い知ることができます。

 

わたしも、当時、使われていた教科書を多数収集して、その教育がどのようなものであったかを、詳細に調査しているのですが、この『改訂 女子普通作法教科書』は、実際に女子高等師範学校高等女学校、実科高等女学校などで、広く使われていた教科書です。この教科書は、明治45年(1912年)1月25日に初版発行され、大正6年(1917年)12月2日に改訂されたものですが、すでに明治42年(1909年)年4月に、女子高等教育の拠点として、台湾総督府高等女学校が台北に開設されていることから、当時、台湾に於いてもこの教科書が使われていることは、ほぼ確実です。

 

女子教科書

 

実際に、その教科書の内容を精査すると、当時、女子高等師範学校や高等女学校などで、高邁な精神に基づく、あまりにも高度な作法を教えていたことに、驚愕するほどなのです。

 

巻頭の「緒論」と、第五章「敬禮」第三節「座禮」の部分を引用してみましょう。

 

 

   緒 論

 

作法とは、内にこもれる恭敬(きょうけい)の外部に表(あらわ)れたる形式にして、之を禮といふ。 古人も『禮は天理の節文(せつぶん)、人事の儀則(ぎそく)なり』といへるが如く、作法は自然の理法に基づきて、人生の行為(かうゐ)に秩序(ちつじょ)を立てたるものなれば、男女・貴賤(きせん)を論ぜず、時勢・境遇(きょうぐう)に拘らず、日常必ず準據(じゅんきょ)せざるべからざるところなり。 されば、各人能く其の精神のある所を了解し、虚禮(きょれい)に流れず、形式に泥(なづ)まず、時・所・位の三方面に注意して、自他相融和(ゆうわ)し、以て自己の品位を向上せしむることを心懸けざるべからず。

 

(中略)

 

   第三節 座禮

 

第一項 座しての敬禮は、先ず座せる時の姿勢にて、先方に注目し、臂(ひぢ)を張らず縮めず、指先を開かず、左の手を先に、右の手を後に膝の前に下(おろ)し、指先を内の方に斜に向け、両手の指先の距離を凡そ二三寸とし、座上より二三寸位の所まで顔面の達するを度として上體を屈し、後徐かに元の姿勢に復すると同時に、左の手より右の手を膝の上に上ぐること(敬禮は凡そ二三呼吸間)

 

第二項 座しての最敬禮には、先ず姿勢を正し、玉座又は御眞影或は御座所に注目し、普通の敬禮と同じく両手を膝の前に下し、指先を内の方に斜に向け、左右の手の拇指と食指とを着け、同時に額は略(ほぼ)指先に達するまでに徐かに上體を屈し、後徐かに元の姿勢に復すると同時に、左右の手を膝の上に上ぐること。(最敬禮は凡そ三呼吸間)

 

 

おそらく、現代の若者には完全に欠落しているだろう本朝の伝統的な作法を、このように明晰かつ詳細に教えており、わたしも一読して非常に感銘を受けたものです。わたしなど、古武道をやっているので、ある程度までは、小笠原流礼法を独習してはいたのですが、さすがにこの教科書を読んで、己(おのれ)の盲(もう)を恥じ入ることすらありました。

 

小笠原流礼法

 

それどころか、当時、女子師範学校や高等女学校では、一般的な「学科」のみならず、お茶は「裏千家」、お花は「池坊」、武道としては「薙刀」を教えており、それに「裁縫」や「料理」も教えていたのですから、驚くべき高度な教育がなされていたと言えるでしょう。現代の女子大学で、ここまでの教育ができているのやらと、現代人として不安になるほどのレベルですらあります。

 

当然のことながら、台湾3部作のドキュメンタリー映画でも、台湾人の高等女学校出身者が証言をしているのですが、当時の高等女学校の教育を語りながら、「あたしなど、現代の日本の若者に比べれば、はるかに日本人だから。」と豪語するのも当たり前のことだと思います。

 

 

ところで、今でもよく90何歳の料理研究家のお婆ちゃんがTVに出てきて家庭料理を披露してますが、こういう人の大方(おおかた)は、女子高等師範学校とか高等女学校の出身者です。

 

ああた、そんなもん受けた教育のレベルが違いますから、90何歳でも料理研究家ぐらいできるに、決まってますやん(笑)。

 

あ〜ぁ、山口淑子も、渡辺はま子も、胡美芳も、テレサ・テンも、みんな死んでしもうたか。あかんやん(笑)。

 

 

参考

 

『湾生回家』 黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督 インタビュー」 Cinema Journal 2016年

『論語集注』(朱熹撰)の日本語訳(學而第一)—『論語集注』を主とする朱子の『論語』解釈—」 孫路易 岡山大学全学教育・学生支援機構教育研究紀要 2017年12月

 

 

追記

 

かつて、1937年に映画『三星伴月』の挿入歌として、当時の人気歌手である周璇が『何日君再来』を吹き込み、これが中国国内で空前の大ヒットとなります。これを受けて、1939年に満州帝国の掲げた五族協和の理念に基づいた李香蘭(山口淑子)主演の国策映画『何日君再来』が制作され、映画の挿入歌として李香蘭が、これをカヴァーして吹き込むのですが、当時、満州帝国統治下の中国大陸や台湾、朝鮮、日本でもこの李香蘭の音源が、大ヒットしたのです。

 

日本の敗戦にともなって満州帝国が瓦解(がかい)した後、李香蘭が歌ってヒットした『何日君再来』や『夜来香』などの楽曲は、中国共産党によって国情に合わないなどの理由で、長く禁止された時代が続くのですが、麗君が1980年代にこれらの楽曲を吹き込み、中華文化圏全域で再びリバイバル・ヒットとなります。

 

 

現在では『何日君再来』などの楽曲は、共産党統治下の中国でも禁令が解かれ、今や台湾、中華人民共和国、香港、シンガポールを始めとして、全世界の中国人に愛唱される歌になっているのです。

中国雲南省の団茶でスパイス・ティーを飲む ― 追憶のなかの神戸ムジカ ―

  • 2020.07.22 Wednesday
  • 18:36

今日は、中国雲南省の団茶を使って、高糖度の牛乳で煮出したスパイス・ティーを飲みます。今回使った中国雲南省の団茶は、プーアルカフェが輸入したものを、神戸南京町のとある中国食材店で購入したものです。

 

ムジカ・ティー

 

団茶(だんちゃ)もしくは餅茶(びんちゃ)とは、発酵させた茶葉をプレス機にかけて圧縮し、煉瓦状に固めたお茶を言います。このような団茶や餅茶が作られた理由は、遠隔地への輸送をしやすくするためだったと言われていますが、通常、団茶や餅茶には、あまり上質の茶葉は使われません。どちらかと言うと、ボディ感の強い、ややとげとげしい味のする二級品のお茶が使われることが多いのです。かつて、この雲南省で製茶された団茶や餅茶というのは、上古の時代から茶馬古道という交易路を通ってチベットにまで運ばれ、或(ある)いは絲綢之路(シルクロード)を経由して、遠く欧州にまで運ばれたものです。

 

このような大航海時代以前の上古の交易路は、古くは塩の交易路とも関係しているのですが、団茶や餅茶、或いは茶壺に入れられたお茶が、遠隔地まで運ばれる過程では、中継貿易を生業(なりわい)とするさまざまな民族が関与していたのですが、ある場合には、沈黙交易によって運ばれたとすら、言われています。このような雲南省のお茶は、当時、スパイスや絹布などと同じく、黄金にも匹敵する価値を持つと言われ、西欧社会の貴族や聖職者などの特権階級の間で珍重されたものです。

 

また、チベットやネパールでこのようなお茶が珍重された理由は、このような高度1500mを超える高山地帯では、野菜などの栽培限界を超えているため、蔬菜(そさい)ですらほとんど栽培できないので、頻繁に喫茶をすることによってビタミンを補給しないと、その食生活に於いて深刻なビタミン欠乏症を起こしてしまうからです。最悪の場合、茶によってビタミン補給をしないと、壊血病を発症して歯茎から血を流しながら、悶(もだ)え死ぬことすらあるのです。ですから、チベットやネパールなどの高山地帯では、栄養補給のために、高山地帯でも放牧が可能な山羊の乳などで、このような茶葉を煮出してスパイスを入れて飲む、いわゆるチャイが一般的に飲まれているわけです。

 

チベットやネパールなどでは、いわゆる小乗仏教(大乗側から小乗と揶揄していますが、実際には仏陀の教えに近い原始仏教の形式を残した仏教の宗派です)が、現在でも非常に多くの信仰を集めておりますが、このような出家した仏僧に喜捨(きしゃ)するのは、このようなチャイです。仏僧が古式に従って、僧衣を身に纏(まと)い托鉢にでた際には、その信者は進んでこのようなチャイを献茶して、過酷な修行をする僧を労(ねぎら)うのです。

 

そういうわけで、わたしも今回、この雲南省の団茶を削って、シナモン、カルダモン、クローブ、ジンジャーなどのスパイスと一緒に高糖度の牛乳で弱火で煮出してから、僅かに塩を入れ、お茶を煮出した鍋に蓋をして短時間の蒸らしをかけてから、仕上げに少量のブランデーを入れ、それを茶漉しで漉して飲んでいます。

 

スパイスを入れて煮出し

 

さて、今回、このお茶にあわせたのは、神戸岡本に店舗のあるシンフォニー ナガノの桃のケーキとクリームブリュレです。この菓子舗は、非常にコストパフォーマンスの高い大ぶりの洋菓子を作っており、安価に高品質の洋菓子を買えるので、岡本や甲南本通商店街に買い物に出掛けたときには、よく立ち寄ります。

 

神戸の洋菓子屋の伝統に従い、きちんと焼き菓子も多数作っているので、安心して購入できる店だと言えるでしょう。特に、看板商品の「十二間通りのマドレーヌ」は、非常に真面目な作りの焼き菓子であり、甘みを抑えた味なのに、コクのある非常に美味い焼き菓子だと言えるでしょう。なんてことはない「マドレーヌ」なのに、スパイシーなチャイとあわせても、味負けしないのには、感心しました。「リーフパイ」などの焼き菓子の味をみたところ、恐らくはフロインドリーフ系の店で修行をしてきたと思われる かつて洋菓子の技術集団として有名だったアンテノールで修行して、同じ系譜のムッシュ マキノで腕を振るっていたそうですが、もう完全に自分流の菓子になっていて、それはそれで上出来なので文句はありません。

 

ところで、わたしがこのようなスパイス・ティーを飲むようになった切っ掛けというのは、今から30数年前に神戸三宮のさんプラザ地下1階にあった神戸ムジカという紅茶専門店にあります。

 

わたしは、小学生の時には、ビートルズの大ファンで、1972年頃、小学3年生の時に3歳年上の兄に連れられて、初めて神戸三宮にあったビック映劇という名画座に連れて行って貰ったのですが、そこで上映されていたのは、『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』、『ヘルプ!4人はアイドル』、『レット・イット・ビー』の三本立てでした。断片的なニュース映像などではなく、動くビートルズの映像を初めて見たのはこの時が最初でしたが、この三本立てのビートルズ映画を観て興奮冷めやらぬ状態で、兄に連れてこられたのが、この神戸ムジカなのです。

 

当時、神戸ムジカの看板商品は、「ムジカ・ティー」という牛乳で茶葉を煮出したスパイス・ティーで、ムジカに初めて連れてこられたわたしもこの紅茶を飲んで、非常に感銘をうけたものです。シナモンの香りも高く、おそらく高糖度の牛乳で煮出していたのでしょう紅茶の表面にはタンパク質の膜ができていて、熱でゆらゆらと揺れていたのを憶えています。店内はかなり狭くて、テーブル・クロスがかけられた数台のテーブルが並べられただけで一杯でしたが、その各テーブルの上には、いつも一輪の薔薇の花が飾られていたものです。

 

それから小学生のわたしは、その紅茶の味に魅せられて、小学生ながら神戸ムジカに通うことになったのですが、それはいつもビック映劇で、3本立ての映画を観た帰りでした。当時、ビック映劇は「良心劇場」を名乗っており、たった300円で入れ替えなしで3本立ての映画を観せてくれたので、朝から夕方までビック映劇で映画を観てから、閉店間際の神戸ムジカに行って「ムジカ・ティー」などの紅茶を飲んで、市バスに乗って家に帰るということをよくやっていました。

 

当時、ATG系列の映画が全盛だったのですが、ビック映劇に通っていたおかげで、その頃ATGが配給をしていた作品はかなり観ているのではないでしょうか。それ以外でも、高橋洋子と秋吉久美子のデビュー作である『旅の重さ』とか、秋吉久美子が主演した『赤ちょうちん』とか、ベトナム戦争を描いた『ジョニーは戦場へ行った』や、謎の暗殺者を描いた『ジャッカルの日』などの当時の話題作は、ほぼ観ているのですが、時にそれらの映画を思い出しながら、自分の幼年期から思春期を回想することもありますが、その思い出に重なるのは、いつも神戸ムジカの「ムジカ・ティー」なのです。

 

 

「こども」だから、何もわかってないとか、思わないほうがいいですよ(笑)。

 

 

参考

 

なぜ紅茶の聖地に?ムジカの三代目が語る」 Lmaga.jp  2019.10.22 07

 

 

参考文献

 

洋菓子の経営学―「神戸スウィーツ」に学ぶ地場産業育成の戦略』 森元 伸枝 2009/1/1

はた珈琲店の敦盛ブレンドを飲む ― 追想の神戸元町商店街 ―

  • 2020.07.20 Monday
  • 15:01

今日は、神戸元町商店街の5丁目にあるはた珈琲店の敦盛ブレンドを飲んでいます。

 

はた珈琲店に通い始めたのは、もう随分昔のことで、まだ1階が洋品店で、外階段を上がった2階だけで珈琲屋をやっていた頃から通っているのですから、もう30年はとっくに経過しているでしょうか。当時はまだ大学生で、東京で味を憶えた珈琲を飲める店を神戸でさがしていて、自家焙煎をやっていたこの店に辿りついたと記憶しています。

 

はた珈琲店では、今でもマンデリンをよく飲んでいますが、当時、やや酸っぱい味のするキリマンジェロが非常に流行っていて、マンデリンを自家焙煎している珈琲店はあまり多くなかったように記憶しています。そういう豆の好みもあって、通うようになったのですが、このはた珈琲店の敦盛というのは、華やかななかにも繊細さを感じさせるブレンドなので、お気に入りでよく飲んでいます。

 

敦盛

 

珈琲自体は、幼少期から結構好きだったので、1970年代の中頃から、小学生ながら、摂津本山にあった甲南学習院という塾に行った帰りに、阪急岡本の駅前にあるカフェ・ド・ユニークという珈琲屋で、独りで珈琲をよく飲んでいました。そういうわけで、このはた珈琲に辿りついたというのも、別に偶然でも何でもなく、居心地の良い喫茶店をさがしていたら、そうなったというだけの話です。

 

ところで、わたしは元町商店街の外れに、まだ三越があった頃を知っている最後の世代なのですが、元町商店街にはある意味、非常に思い入れのある世代なのです。神戸が平和都市宣言をして米国海軍の艦艇の寄港を拒否してしまってから、すっかり店が変わってしまって、往事の老舗が軒を連ねていた面影はもうありませんが、わたしが幼少の頃の元町商店街というのは、大丸神戸店をその起点として、元町の1丁目から6丁目までを繋ぎ、その終端には三越があるという好立地もあり、当時、非常に栄えた商店街だったのです。

 

特に、元町6丁目の辺りは、当時、関西最大の古本屋街があったので、商店街を歩いていると、古びた古書の匂いとインクの匂いが古書店の入り口から漂ってくきたものです。軒を連ねる古書店は、アーケードの天井近くまで古書を積み重ねており、さまざまな専門書店が、貴重な文献を書棚いっぱいに並べて売っていたものです。幼少期には、三越で両親が買い物をした帰りに、この古書店街に立ち寄ることもあり、さまざまな文献が書架いっぱいに分類整理されて並んでいるのを見て、子供心に、いつか自分もこのような文献を読む日が来るのだろうかと、何やら憧憬(どうけい)にも似た気持ちでそれを眺めていたものです。

 

そういう経緯もあって、東京の某犬死大学に入学した際には、神田の古書店街に出掛けて、往事の元町商店街と同じく古書店が建ち並んでいるのを見て驚喜(きょうき)し、毎日のように古書店街に出掛けては、膨大な量の貴重な文献が書棚いっぱいに並べられているのを見て、喜色満面でそれを選んでいたものです。特に、東京堂書店の文化人類学関連の書棚の充実ぶりには酷く感動しましたし、小宮山書店の民俗学関連の充実ぶりにも大きく助けられたものです。というのも、これらの専門書店の書棚を見れば、その書棚の並びから、関連した重要文献がひと目でわかるので、大学の図書館司書に文献を調べて貰うより、よほど早かったのです。その意味で、わたしは、神田の専門書店の書棚をみて、学問を積んだとも言えるでしょう。

 

さて、話を神戸元町に戻すと、幼少期に三越で両親が買い物をした帰りには、時々、元町5丁目にある老祥紀という豚まん屋で、豚まんを食べさせて貰ったものです。今でも、老祥紀には豚まんを食べに行ってますが、当時、何故か店の軒先に鸚鵡(おうむ)が飼われていて、それを眺めながら店に入って、豚まんを食べていたことを今でも憶えています。その店は相変わらず元町5丁目で、当時と同じ豚まんを、今でも変わりなく売っているので、よく食べに行きますが、流行(はやり)廃(すた)れに関係のない神戸の豚まんらしい味なので、安心して食べられるわけです。

 

もっとも、今では、阪神・淡路大震災以後に神戸港に荷揚げされるコンテナの量が激減した結果、元町付近にあった貿易商社なども激減し、元町商店街の店自体も、すっかり様変わりしてしまいました。かつてあったメリヤス専門店や陶器屋、呉服屋、洋品店などの老舗は、マリナーが来なくなったこともあって、賑(にぎ)わいを失い、現在では老舗が建ち並んでいた往事の面影はもうありません。

 

時に、何やら訳知り顔で、当時は米国のマリナーがいたので治安が悪かったなどと揶揄(やゆ)する声も聞きますが、わたしの幼少時の記憶を辿ると、そんなことは全くなかったように記憶しています。

 

もちろん、第二次世界大戦の終結から、まだ10数年しか経っていなかったので、三宮のガード下には靴磨きのおじさんが靴磨きの道具を置いて並んで座っていたり、駅前では傷痍軍人の大道芸をする人びともまだいましたし、高架下の商店街も、まだ闇市をひきずっていたものです。それどころか、神戸の各所には、バラックの立ち並ぶスラム街があったりして、まだ目の前に貧困というものが当たり前にあった時代なのは事実です。

 

しかし、幼少期にわたしが実際に見たのは、米国海軍の金モールの付いた制服を着て、きちんと帽子を被った提督が、お付きのものを連れて、大丸神戸店や三越にお買い物に来ている姿です。当然のことながら、街を歩いているマリナーたちは、金モールを付けた提督が歩いているのを見ると、突然、バネ仕掛けの人形のように全員が直立不動で敬礼をするのですが、海軍提督が金モールを付けて歩いている街で、マリナーたちも「悪さ」などできるわけもなく、治安に問題があったという記憶は全くないのです。

 

 

「施策(せさく)の懈怠(けたい)」と言われんように、神戸市も振興策をもっと考えんかい。

氷見うどんで、冷やししらす饂飩(うどん)を作る

  • 2020.07.19 Sunday
  • 15:50

今日は、氷見うどん 半生細めんを使って、冷やししらす饂飩(うどん)を作ります。

 

この海津屋の氷見うどんは、こちらで調理した料理を送った際に、送り先から返礼で送り返されてきた到来ものです。わたしは、富山に何度か行ったことはありますが、氷見うどんにはあまり馴染みがないので、ちょっと興味津々です。わたしの住んでいる関西圏では、氷見うどんはあまり出回らないのですが、関東で旨い饂飩といえば、のどごしの滑らかなこの富山の氷見うどんが、まず挙げられるようです。

 

わたしが東京に住み始めた20数年前には、関東ではうどんにまで濃い口醤油を使っていたため、その汁が真っ黒なのに驚愕したものです。当時は学生だったので、あまりお金もないので、結構、「富士そば」や「小諸そば」をその代表とする立ち喰い蕎麦屋を使うことも多かったのですが、当時は「はなまるうどん」や「丸亀製麺」などの饂飩専門店がなかったので、東京の饂飩はあまり美味しくありませんでした。そこで、もっぱら蕎麦屋ばかりに行っていたものです。

 

その後、わたしも東京に長く住むようになって、頻繁に蕎麦屋に通ううちに蕎麦の旨さに開眼して、当時住んでいた本郷西片町から歩いて行ける「かんだやぶそば」にも、頻繁に通ったものです。当時、酒の肴に「板わさ」を注文してみて、あまりの旨さに驚愕してのことですが、特に新蕎麦の美味しさには、江戸の「粋」というものを感じて、本当に心打たれたものです。そのため、関西に帰省すると、蕎麦屋があまりに不味いので、逆に関西では饂飩屋ばかりに行っておりました。

 

結局、関西は饂飩文化圏、関東は蕎麦文化圏なので、その当時は、当然と言えば当然だったのですが、今では関東にも旨い饂飩屋がいっぱいありますし、また、関西にも旨い蕎麦屋がいっぱいあるので、その恩恵をわたしも受けています。地元の蕎麦屋で、わたしのお気に入りなのは、有馬の「全寿庵ごんそば」です。有馬に行った際には、ここの蕎麦を食べるのが楽しみになっていますが、何故かここの「おでん」がめっぽう旨いので、韃靼(だったん)蕎麦を含む「3種盛り」をたぐりながら、「おでん」を食べて、黒松剣菱を飲むのが恒例になっています。

 

ちなみに、今回は、自分で出汁をひかずに、大阪の恩地食品と九州のあごだしで有名な久原醤油がコラボして作った「あごだしつゆ」を使っています。この商品は、着色料・保存料不使用なので、ちょっとお気に入りなのです。面倒臭いときには、もっぱらこれを使っています。

 

さて、それでは作り方を紹介します。

 

■材料(2人分〜3人分)

 

氷見うどん           1袋

あごだしつゆ      1袋(300cc)

しらす             100g

茗荷              3本

生姜              2片

大葉              10枚

葱               2本

オクラ             4本

天かす              適量

 

油あげ             1枚

 薄口醤油         大匙2杯

 みりん(本醸造のもの)  大匙2杯

 料理酒          大匙2杯

 三温糖          小匙2杯

 水               少々

 

材料一覧

 

まず、油あげを甘辛く煮ます。適当に食べやすい大きさに刻んだ油あげを、薄口醤油、みりん、料理酒に水を少々入れて伸ばしたもので、油あげをしばらく煮ます。弱火で炊いていくと、油あげが味を吸い込んで、鍋に水気がなくなれば炊き上がりです。

 

揚げを炊く

 

大鍋にたっぷりの水を入れて強火にかけて、饂飩を茹でる準備をします。湯が沸くまでの間に、葱、生姜、大葉、茗荷などの薬味を刻んでおきます。オクラは、塩をいれた湯でさっと湯がいて、薄切りに刻みます。

 

薬味一覧

 

薬味は何でもよいのですが、今回は葱、生姜、大葉、茗荷を使いました。もし手に入るのなら、辛みの強い鼠大根(ねずみだいこん)をおろして、冷やしうどんにのせてもとても旨いです。また、温泉卵を冷やしうどんにのせても、美味しいでしょう。その辺りはお好みで、工夫してみてください。

 

大鍋で湯を沸かしたら、食べやすい長さに切った氷見うどんを茹でます。書いてある時間より、ほんのちょっと早めに笊にあげて、流水でよく揉んで滑りを落とします。ざっと滑りが落ちたら、さらにこれを氷水で〆(しめ)て、1、2分だけ冷やします。

 

うどんを冷水でしめる

 

氷水で〆た饂飩を皿に盛り込んで、甘辛く煮込んだ油あげ、天かす、しらすをたっぷりふりかけて、そこにお好みの薬味をたっぷりかけて、最後によく冷やした「あごだしつゆ」をかけてやります。これで、できあがりです。

 

できあがり

 

それでは、いただきます。

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